姫君と騎士

姫君と騎士

 

          『この剣とこの心。そしてこの血肉は貴女様に捧げましょう』

          彼はそう言いました。
          わたくしはその言葉を信じました。

          ……信じて、いたのです。

 

          この国の王陛下には、二人の姫君様がおりました。
          姉姫様は、とても美しく、神々しいまでの眼差しをお持ちで、教養があり利発な
          お方でございました。
          男御子のおられぬ王陛下は、早々と姉姫様を御世継ぎにと定められ、それはそれ
          は熱心にご教育をされておりました。
          妹姫様も、姉姫様の輝くばかりの美貌と才能に霞みがちではございましたが…お
          綺麗で頭の良い、優しいお方でございました。
          只、姉姫様に気後れなさるのか、公式の場にお出になることは滅多にございませ
          んでした。
          王陛下と姉姫様、そして妹姫様がそろってお出ましになるのは、新年のご挨拶と
          それぞれのご生誕日、そして毎年1度行われる、騎士叙任式だけでございました。

 

          この国で騎士に列せられる方々は、その剣と誇りを女性に捧げるのがしきたりで
          した。
          我が父上も、当然のように亡き母上に剣を捧げられたと聞き及んでおります。
          この年に叙せられる方々の中には、とても美しいと評判のあの方がおりました。
          滅多にこのような場に出ることの無いわたくしも、心逸る思いをしたものです。
          あの御方が一体どなたに剣を捧げられるのか。
          姉上様がいたくご執心のご様子でしたので、お顔を拝見していないわたくしもド
          キドキしながらその時を待っておりました。
          …姉上様が彼のお方をお気に召していたのは、城の中でも周知の事実でございま
          す。
          加えて、姉上様のあの美貌。…将来はこの国を導いてゆく事が決まっていらっしゃ
          る御身。
          彼のお方が姉上様以外の女性に剣を捧げる等、考えられない事でございました。
          現に何人もの騎士様が、姉上様に剣を捧げられておりましたから…。

 

          ですが美貌の新任騎士殿は、その剣を姉姫様にはお捧げにならなかったのです。
          彼の剣が捧げられたお相手は。
          …あろう事か、その妹姫様でございました。
          ああ、それを知った瞬間の、姉姫様のお顔は一体どうしたことでしょう?
          普段は決して曇らせる事の無い凛とした御眼差しを、一瞬だけお下げになり。
          次に妹姫様に向けられた視線は、それはそれはきついものでございました。
          私が拝察するに、恐れ多い事ながら姉姫様はお悔しかったのでございましょう。
          ご自分は常に妹姫様よりも大事に扱われ、それが当然の事のようにお暮らしに
          なってこられた。
          それを、ご自分のお気に召していらっしゃった殿方に裏切られたのでございます。
          しかも、そのお相手はご自分の後ろに隠れるようにしてご成長なさった妹姫様
          だった。
          女王となる為に教育されてきたそのお心の高さが、姉姫様の御心を変えてしまわ
          れたのだと思います。
          …げに高貴な御方々でも、『嫉妬』という古からの呪いには勝てなかったという
          事でございましょう…。

 

          …夢ではないかと思いました。
          美しき騎士様の剣が、姉上様ではなくわたくしに掲げられているのです。
          暗い御簾の内でも、頬が赤らんでいるのがはっきりとわかったことでしょう。
          …でも。
          その夢のような心地も、姉上様のお顔を拝見して一気に冷めてしまいました。
          姉上様は、終ぞ見た事も無かった恐ろしいお顔で、わたくしの御簾を睨んでおい
          ででした。
          自分でもビクリと肩が揺れるのを自覚した刹那、姉上様は席をお立ちになり、父
          王様のお声も聞かず、広間を出で行ってしまわれました。
          …ああ、わたくしはその時どうすれば良かったのでしょう?
          いつもいつも、わたくしにお優しかったあの姉上様が。
          あのように…夜叉と見紛うが如きお顔をされるなど。
          姉上様の後を、すぐさま追いかければ良かったのでしょうか?
          ですがその時のわたくしには、叙任式を放り出して席を立つなどどいう恐ろしい
          事はとても出来ませんでした。
          姉上様をお断りしてまでわたくしを選んでくださった騎士様を、放り出してしま
          うようなことは。
          …そんな身勝手が、わたくしに許されましたでしょうか?

 

          思えばその時から、姉姫様はお変わりになってしまわれました。
          明るく快活で、遠乗りやお庭の散策などを好まれていた姉姫様が。
          どうしたことか、お塞ぎがちに、お部屋で過ごされる事が多くなりました。
          あんなに仲がお宜しかった妹姫様とも、お会いになることは稀になり、お話をさ
          れることなど全く無くなりました。
          そして。
          彼の騎士様と妹姫様とのご婚約が整ったその日。
          姉姫様は…考えただけでも恐ろしい、行動をお取りになったのでございます。

 

          わたくしが駆けつけました時には、父王様の息は既にありませんでした。
          紅い湖の中に横たわっている父王様のお傍には、とてもお綺麗に微笑まれる姉上
          様がいらっしゃいました。
          わたくしが何か申します前に、姉上様はにっこりと笑顔で仰いました。
          …お前に幸せはあげない、と。
          未来永劫、彼に選ばれた事を悔いるが良い、と。
          お顔はとてもお美しくていらっしゃいましたが、あんなに恐ろしい姉上様を拝見
          したのは叙任式以来でございました。
          そして、わたくしと数人の女官が見ている前で。
          父王様の命の火を消し去ったのと同じ剣で、姉上様は自らのお命をお断ちあそば
          したのです。

 

          正式なご結婚はこの前代未聞の不祥事の為延期になりましたが、妹姫様と騎士様
          はしばらくして一緒にお住まいになられました。
          妹姫様は、只一人残された王家のお一人として。
          騎士様は、その生涯のご伴侶として。
          妹姫様の御心の傷はまだ深いご様子でございましたが、騎士様の真実の愛に、少
          しずつ癒されていたようでございます。
          正当なる王家の後継ぎとして、妹姫様はそれから様々な事をお学びになられまし
          た。
          この国の政治のあり方から、帝王学と称される学問まで。
          本来ならばご縁の無かったものでございますが、妹姫様…いえもう皇女様と申し
          上げるべきでしょうか…は本当に一生懸命学ばれました。
          姉姫様ばかりが目立っておりましたが、皇女様の才能もそれはそれは素晴らしい
          ものでございました。
          乾いた大地が水を吸うかの如く、与えられた知識を全て…瞬く間に吸収されて
          いったのです。
          これには、皇女様の素質を危ぶんでいた大臣方も納得せずにはいられませんでし
          た。
          1年が経つ頃には、皇女様は姉姫様に勝るとも劣らない、ご立派な御世継ぎとし
          て全ての者に受け入れられました。
          ご伴侶である騎士様も、お美しいばかりでなく勇敢で、こちらもご立派な次期騎
          士団長候補となられました。

 

          わたくしは、本当は怖かったのです。
          ついこの間まで姉上様の御手にあったものが、今は全てわたくしの手の内にある。
          戴冠式を終えれば、全国民の生活がわたくしの肩に乗る事になるのです。
          …これに恐怖を感じないのは、亡き姉上様ぐらいではないでしょうか?
          あの御方は、生まれながらにしての女王でございましたから。
          後ろに隠れていただけのわたくしに、姉上様と同じ事が出来ようはずがありませ
          んもの。
          …そう申しますと、あの方は逃げよう、と仰ってくださいました。
          何もかも捨てて、小さな村で二人暮らそう、と。
          ああ、疲れ果てたわたくしに、その言葉はどんな砂糖菓子よりも甘く聞こえる毒
          でございました。
          わたくしは、疲れておりました。
          この肩に圧し掛かる全ての重圧を捨て、この方と二人で生きていけたのなら。

 

          戴冠式を目前に控えたある朝、皇女様と騎士様のお姿は消えておりました。
          大臣方や騎士団の方々は、それはそれは…血眼になってお二人の行方をお探しし
          ました。
          皇女様は王家の最後のお一人。
          この血を絶やすのは、何としても食い止めなければなりませんでしたから。
          そして一月が過ぎた頃。
          隣国との国境近くの小さな村で、寄り添うようにしてお暮らしになっていらっ
          しゃったお二人が発見されたのです。

 

          全ては、わたくしのせいでございました。
          追手に発見された時も、あのお方は当然の如く逃げようとなさいました。
          そしてそれは、あのお方のお力からしてみれば、造作の無い事でございましたの
          に。
          どうしてあの時、わたくしはよろめいてしまったのでしょう。
          足を取られたわたくしを飛んできた矢から庇おうとなさり、あのお方は…。
          若い命を、散らされたのでございます。
          …わたくしなど、庇われなくとも良かったのに。
          矢は、絶対に。
          わたくしには、当たらないよう放たれているのですから。
          ああ、騎士の誓いとは何と残酷なものなのでしょう。
          剣を捧げた相手は、例え自らの命を投げ出してでも護るという、あの誓いさえな
          ければ。

 

          お城にお戻りになられた皇女様からは、陽だまりのような笑顔は失われておりま
          した。
          代わりにその身に宿っていたのは。
          彼の騎士様の生まれ変わりとも言える、新しいお命でございました。
          女王となられた皇女様がお生みになったのは、騎士様に生き写しとも言える、お
          美しい男御子様でございました。

 

          だから、わたくしは生きたのです。
          この身に宿ったあのお方の命を、消さない為に。
          父王様が夢見たこの国を。
          姉姫様が憂えたこの国を。
          …あの方が護ろうとした、この国を。
         

          だからわたくしは、愛すのです。

 

          …さあ、わたくしのお話はこれでおしまい。
          何故わたくしがあなたを騎士にしたくなかったのか、これでわかったかしら?
          …利発なあなたにならすぐにわかるはずですね。
          それにわたくしは、自分の犯したただ一度の罪を、誰かに聞いて欲しかったのや
          もしれません…。
          さ、もう寝みなさい。
          明日はあなたの戴冠式。明朝は早いのです。
          …これだけは覚えておいて。
          母はあなたに何にもしてあげられなかったけれど。
          それでも、あなたを愛していたのですよ。
          …え?深い意味はありません。
          王となるあなたへの、わたくしからの餞と思ってくださいませ。
          おやすみなさい。…良い夢を。

 

          「…母は、もう、疲れました。それでも、幸せだったのですよ…」

 

          閉ざされた扉に向かって呟かれた女王様のお言葉を聞いていたものは、誰一人と
          してありませんでした。
          戴冠式の朝。
          自室で眠るように息を引き取った女王様が発見されました。
          まだお若いそのお顔は、微笑んでいるようにも見えました―――――。