グリブル長編小説「一枚の思い出 第4話」
 

 

一枚の思い出 第4話

 

「……っ…はぁ」
俺は一呼吸置くように、重々しく息を吐く。

息をするのが苦しい。
心臓が早鐘のように脈打つ。

一番思い出したくない記憶。
忘れ去った記憶。
消し去ってしまった記憶。

「…大丈夫…」
再度、優しいキスをくれる。
疑問系でも、言い切るわけでもない、そんな言葉と共に。

「ブルー…」
苦しげに名前を呼ぶ。
「なぁに?」
彼女は優しげに答えた。
「…好きだ……」
「…っ」
「好きだよ…」

リミッターはもう、効いてはくれない。

いつも言わないような言葉まで、口から出て行く。
それほど、動揺している…。
それほど、不安に感じている。
それほど、苦しみを感じている。

「…愛してるわ…」
「…っ」
耳元で囁かれる優しい声に、不安が消えていく。
それを…期待した…。

 

忘れていた記憶。

 

 その正体は、ある日の出来事だった…。

 いつもと同じように、シジマ先生の指導を受けて、いつものように、蔑む声を聞き、いつものように、心にもない賞賛を聞いた。
 そんな生活にも、だいぶ慣れてきていた。

 

 

 

 

 

 

 その…はずなのに…。

 

「あの日は…雨だったんだ…。すごい大雨で、シジマ先生も、海が荒れるだろうからって、見回りに行ってて、居なかった…」
思い出す、嫌な記憶。
飲み込まれる、闇。

 

 たまたま、たまたま通りかかった道場で、門弟が噂しているのを聞いた。
 いつも、俺をよしとはしなかった、蔑む連中だった…。

 聞こえてくるのは、俺への非難、罵倒。
 覚えのない、文句や、噂話。
 聞いていて腹が立った。
 でも、なんだかその状況にも、慣れてしまっていた。
 もうどうでもいい。
 そんなことしか思えない、あいつらが可哀想なのだと、逆に蔑んだ。

 俺のことを、いくら馬鹿にしたっていい。
 俺のことを、いくら蔑んだっていい。

 確かに俺は、あいつらに認めてもらえるほどの力も強さもない。
 それは事実だった。
 だからいつか見返してやると、毎日修行を繰り返した。

 でも…

 

「でも、嫌いだったけど、それでも、おじいちゃんの悪口や、シジマ先生の悪口を言われるのだけは、許せなかった…」
ぎゅっと、爪が食い込むほど、自分のこぶしを握り締める。

 

 所詮、一時研究が評価されただけの爺だと、おじいちゃんを笑った。
 オーキド博士の孫だからと、俺を贔屓してるだけだと、先生を馬鹿にした。

 おじいちゃんの苦労を、おまえらなんかに分かってたまるかっ!
 先生だけが俺を認めてくれたことを、贔屓だからと馬鹿にされてたまるかっ!

 ふざけるなっ!!
 お前たちに何が分かる。
 比べられることもなく、自分を自分として認められ、幸せに親元で生きてきたおまえたちに、何が分かるって言うんだ。
 人の苦労まで、馬鹿にする権利なんかあるものかっ。

 

「…でも俺は…最悪の方法で、そいつらに報復したんだ…」
爪が手の肉を切り裂く。
血が、床に滴り落ちた。

 

 修行の成果か、そいつらをぶちのめすのに、そう時間はかからなかった。
 泣いて、すがって、悪かったと、許してくれと謝罪されても、許せぬほど、俺の怒りは爆発していた。

 『おまえ達、何をやってるんだ!!!』

 他の門弟に取り押さえられて、見回りから戻ってきたシジマ先生に、俺はこっぴどく怒鳴られた。

 他の奴らにも、オーキド博士の孫なのになんという愚考、と噂した。
 シジマは何をしていたのだ、自分の門弟の指導もできないのか、と叱咤された。

 俺はこのとき、とんでもないことをしたと気づく。
 俺がしたことで、おじいちゃんの評価を下げる結果になった。
 俺がしたことで、シジマ先生が怒られるはめになった。

 俺が、俺のしたことが、二人の悪口を言われる原因を作ってしまったんだ。

 シジマ先生に、何故殴ったのか、と理由を聞かれたけれど、申し訳なくて、何も言えなかった。

 

「…自分が子供で、良かったと思った…。相手が俺より年上で、良かったと思った…。殺すまでは…いかなかったから…」
声が震える。
「…」
彼女は、俺の握り締めた手を優しく開き、傷口にそっとキスをして、流れた血を優しく舐める。
「…っ」
その行為で、俺は初めて手の痛みを、感じることができた…。
「…」
優しく舐められた後、彼女の持っていたハンカチが、手に巻かれる。

白いハンカチが、血に赤く染まった。

「…恐くなって…俺は、その場を逃げ出した。全てのものを、傷つけそうで、自分のせいで、何もかもを失いそうで、逃げだした」

 

 大雨の中を、走って走って、逃げ出して。
 そして、あいつに、会った。

 会ってしまった…。

 『来るな!!!来るな!!来るなぁああああ!!!!!』
 走って、走って走って…。

 

「大雨で、地面がぬかるんでて、俺は…体制を崩して、そのまま…崖から落ちそうになったんだ…」
「…うん」
優しく頬を撫でられ、髪を梳いてくれる。
「それを、あいつが…助けてくれて…あいつが…助けて…」
声が震えて、言葉にならない…。
「…うん」
優しい声に、一息呑み込む。

 

 

 

 

「…あいつが…代わりに落ちて、俺を…助けて…くれたんだ…」

 

 

2007年6月27日 Continued

BACK TOP NEXT